李斎庵

どういう訳か田舎暮らしをすることになってしまった

私とは即ち阿呆

はんさむと言われ育った私様だが、もちろん当時はそんな高尚な英単語は存じ上げない。

はんさむ。即ち、『hand-some』である。なぜ『手』と『何か』で『イケてる』というような意味になるのか。

 

二十三年も生きれば、「あー、わかるわかるー。なんかそんな感じだよねー」と同意してくれそうな人も徐々に現れてきたが、そういう連中に限って東大とか、それはまだ誇らしいけれど、同時に早稲田とかからの声もあった。専門ではかわいい『?』を浮かべるかわいい年下ばかりだった。

その度に「くっそー。なんなら京大いけばよかった〜(>_<) まあ努力とか無理だから無理、一言で言って無理だけど〜(>_<)」と、大和男子らしく、携帯メールでも顔文字なんか一回も使わないで学歴コンプレックスを自覚し、そうして汚れちまった哀しみをファショーンにぶつけるほどの器用さで、服飾でそれなりの成果は上げたけれど、ああいう『?』を『かわいい』と懐古するあたりが特に哀しい。

 

なんにせよ、そこにはかなり高度な形而上学的ないしは現象学的フェノメナが、クオリアが、それはもうエレガントにスパークリングしているに相違ない。そしてそれは当然、横文字を多用かつ動詞・現在分詞の分け隔てなく誤用することで自分の懐深いインテリジェンスを確認し悦に浸る、そんな簡単なことをも知らぬ、十にも満たぬ私の手に余った。

 

同様に、スラムダンクに夢中になったから毎日バスケをして、スラムダンクに夢中になったから毎日バスケットボールをして、時にはワープロで描いたしていた。

バスケットボールに刻まれている曲線は霊妙なもので、あれをさまざまな角度で描くというそれだけで空間認知能力が著しく向上するものだと私は信じる。

 

そのように、本道制覇の為にあらゆる努力を惜しまない僕ちゃんだったから、ああそういえば、小学校入学直前には、母に時計の読み方を指南して貰ったり、必修漢字を全部十回づつ書き取りしたりした。その度に、長兄がまた、要らぬ指南をよこしてくれたものである。まったく良い子すぎて泣けるじゃないか!

 

そのうち、はんさむだの賢いだの絵が上手だのバスケが上手だの足がはやいだのと多いに甘やかされた。

 

だから、もしも自分に子ができたら、俺だけは甘やかさないと心に決めた。

六歳で時計が読めたり漢字が書けたなら褒めてやるし、スポーツができたのならやっぱり褒めてやろう以下略。

 

でもそういうのって結局、親として、子に対して受動的かな。