李斎庵

どういう訳か田舎暮らしをすることになってしまった

田舎初心者

田舎に越してきて、早、半年と2分の3月。

思い返せば、免許を取ってその足でジェーアール沼津駅に乗り込み、エビスをごくごく向かった田舎は奇しくも初冠雪の日であった戦慄した若葉ちゃんとは俺のこと。

 

田舎とはどのような都なのだろうか。聞くところによれば、田舎というものは、どうしたって『閉鎖的』を2乗し、しがらみと因習が加えられたような呪われた都であるという。なんとおっとろしー。そんなおっとろしー都の停車場は以外に都会で、「なるほど織田信長が治めていただけあるなあLOFTもあるし。なんかIKKOみたいなおっさんだかおばはんなんだか判然としない謎の毛皮梱包生命体も這入ってきたし」と、私は田舎のエクセルシオールプレミアムモルツをのみのみしていた。当時はまだ『官兵衛』は大河ドラマでやっていなかったので、有名な絵で見るハゲの信長を想像していた。

 

あれ、でも、東京のような大都会における、東京のような大都会でないと成り立たないようなニッチな業界、曰く、奇人変人、コンプレックスの塊や自尊心の燻り果ての成れの果て、過去なき未来と根拠なき才能に拘泥する夢見る阿呆に鬼才、天才、努力家や誰もが羨む資本家とが集って成立する、いわゆる『業界』というものはよっぽどおっとろしーのではないか。いやおっとろしーに違いないと、私は思った。そして、だから、田舎は大して田舎ではなかった。

 

都会人が田舎に期待するもの。これすなわちキラキラの星空に相違ない。田舎人は都会に高層ビルとキラキラを期待するであろう。退廃的都会人はキラキラの夜空の下で石にのぼりて啼き蛙てな感じの風流を期待し、先進的田舎人はグラスや什器の縁がキラキラするあ代官山のバーでアヒージョをつまむかっこいい生き方を期待する。

 

果たして田舎は田舎でなかった。まず星がそんなない。真実の田舎では、あまりに静かで、夜になると時期に関係なく天の川が見え、彦星と織姫は毎夜船の上でロマンスを重ねている。そして屋内では余りの静けさのために、まるで無音室で味わうかの如き漆黒の不安が身体の中から外から沁み込み恐怖するものだ。

 

この様に、田舎は田舎ではなかった。住んだら単なる一介の都であった。ニッチな業に苛まされる無間地獄は存在せず、幾人かの専門家がその業を負う。奇人変人は酒と噂話の肴として収穫される。よっぽどおかしいのが病院に行くのはどこも変わらない。その他変なのは都会へ行く。都会の変なのやドロップアウト組が流れ込む。田舎でも都会でも同じように社会的生活が営まれる。社会的単位の基本は個人だ。田舎と都会ではすっとばしかた・くっつけかたがその個々人にとっての重要度に応じて異なるけれども、その次に家族とか地域とか会社とか友達とか将来の不安とか行きつけのお店のあの子などなどがある。

 

何が言いたいかというと、『田舎』とか『都会』とか、あるいは『自然』だとか、そのようなものは個々人がそう思うからあるだけで、『そういう風に思えるだけの材料がある』『そんな場所』というものは、結局のところ、住んだらどこも変わらない、『都』であるということ。

そして、その上で言うけれど、田舎暮らしは太るるるるるるるる。