李斎庵

どういう訳か田舎暮らしをすることになってしまった

kinounotuduki

午後、職場に突然の☎。地産地消が売りであるところの名物民宿のおかみさんからである、ここの料理はほんとにおいひい♡

なんでも、どこぞの大学の先生が突貫視察を行っていて、私が務めるところのNPOを訪れたいので理事クラスのエライひとはおらんかって話であった。

簡潔に、おりまへん。理事方はそこかしこで立派な取り組みをなされています。まあ、ここには無愛想なでいたらぼっちがパソコンとニラメッコしながらいつでも開けてはいます。と伝える。

一時間後、教授陣がご来店。

愛想笑いよりも現場の声をなによりもありがたがりそうな、素敵な方々たったので、俺、でれでれ。

さっそく、慣例の質疑。

『特に東京から、こういう、はっきりいってこういう、「田舎」に来て、大変じゃないですか?』

こういう質問に対していつもおもうのは、
『え。というか、そいうもの(環境の変化への対応)は、すべからく個人の資質によるものでは?』
ということ。

こういう質問には、決まって、『父の実家が、五島列島みたいな、よっぽどの田舎ですから』といってやりすごす。
そういうとたいていのひとは、『(経済・社会的な、その上で彼らが給与を得る問題である)過疎地の現状』よりも『(単に個人的な郷愁をさそう)田舎の実情』に興味をシフトさせるのだ。 

ま、たいてい、がっかり。って顔される。

ほいで、『まあ諸君が聞きたいことを聞けなくてがっかりってのはわかるけれども、そもそもわざわざ田舎にくるあほんだらが、常軌を逸したあほんだらであることなんて自明じゃねーの????』と、こう思う。s

田舎10ヶ月目

田舎も10ヶ月も経つといろいろ慣れてくるものだ。

 

殊に、私のような、職場が市や県が請け負う『地域活性化事業補助金』みたいなものを一介の事業所が受託し、その上で雇われる身となってみれば尚更である。

そのような身の上であるので、殊に殊更体験することもいくらかあったので書いてみる。

 

おどろくべきことには、この、『地域おこし』なるものに、なんと多くの人々が取り組んでいるかということである。

 

私はそもそも恐竜が大好きだったせいかダーウィンの『進化論』に高校生らしい素直でかわいらしい同調を示し、結果、情けないことには政治的に言って『りべたりあん』とかいうものに属すんじゃないかなーとなんとなーく思っていたのだけれども、そういう上から目線の勝手な推測とは別に、現地の人が、懸命に、現実的にこの『地域』なるものを『ブランド』とするために頑張っていて、かつ、私も、その『現地のひととして』そうして頑張っているのを冷静に俯瞰してみると、「なんかとんでもないことになっちゃったなー」って感じである。

 

というのも、先日、総務省のとってもえらい方が来た。

えらい方だけあってとっても聞き上手で、一流の聞き上手な人に特有の『相槌がいちいちうるっさい』と思えるまでの特質まで備える、えらいひとだった。

 

一般的な資本主義企業勤めで、その企業なるものの理念・目標を忘れてしまっている多くの人は、簡単に言って、儲けるために生きている。なぜかといえば、かれらがそこを志願した理由に、給与の多寡が大きく作用しているから。

他方、国とかなんとかは、そこで漏れかつ法律で保証されている権利を失いそうなものを救済するために、まるでセーフティーネットのように動いている。

逆にいえば、一般的な生き方のできない国民に保証されているところの権利を保証するためにお役所は経済社会と戦ってくださっている。

利益とか考えたら、普通は保障とかしないしね。

 

さて、お国は、一般に『地域おこし協力隊』とよばれるような事業を、全国各地に委託している。

これは、簡単に言って、『あなたの地域を興せるひとを、あなたの会社/法人/団体で雇ってくれたらいくらかあげる。いい働きしてね』というもの。

書いてみて、プレッシャーを感じる。

 

酔った個人的には、本当に素敵な場所でこれをできていて、素敵な出会いをたくさんして、幸せなのだけれども、『あなたの地域を興せるひとを、あなたの会社で雇ってくれたらいくらかあげる』って、本当に適当が過ぎる。

人手が欲しいだけの会社が、この名目で人を釣って、『お役所仕事』みたいな書類で報告書あげれば、お役所はお役所仕事して、それで済んでしまう。

というか、お役所の仕事はいつもこういう、『損益』とか『半沢直樹的責任』から離れた『法律&日本語』でしか割り切れないことばかりなので、普通なら倍返しできるものも、できない。

 

というか、違う。おれがいいたいのは、こんなことじゃない。

 

もっとかわいいことだ。

田舎担々麺

山椒で痺れるような担々麺を食べたいとき、田舎は不便だと感じたが、いざ東京での生活を思い返してみれば、そのような担々麺を出す本格四川料理屋は池袋と日比谷の二つのみ。これは家から電車で1時間20分を要することを意味し、私なら近所のコンビニで『すみれ』を買って自足する。していた。

 

この、要される『1時間20分』がなにかと言えば、もちろん公共交通機関による移送時間だ。その間はずっと本を読んだりして精神的に高尚ないしは社会的に生産的にならざるをえない。

都会でこのように望んでいない状況から文化的、生産的にならざるをえず、結局のところ終電で帰る。

結果、終電に縛られてはいるけれども、精神的には高尚な感じしてるし俺ハッピー、などという平均的な都会人が出来上がる、

最終的にはドロップアウトし、そこから平均的に田舎志願なやたらと精神的な、都会的田舎人が出来上がる。これは、都会の情報誌を読ん育った田舎のガキんちょが最終的に都会生活を志願するのと何ら変わらないのではないのだろうか。

もっとも、平均的都会人は、なにぶんその親の世代が田舎を棄てて上京してきた者たちなので無意識裡にこれを卑しいと恥じ伝授せず、田舎生活を存じ上げない。しかるにその数は少ない。丁度社会科の教師がやたらt

 

というか、宮崎とか長崎なら、2時間かけないとそんな担々麺は食べられない。

そもそも中華移民がある時点である程度栄えてるというか、そういう物流、ネットワークがあるということだと思う。

 

移民を抱えられる地方はあくまで地方であって、これは田舎ではなく、地域を発展させるということは、本格的な担々麺を食べられる四川料理屋のみならず、北京雲南貴州上海福建台湾広東安徽湖南などの中華料理屋を増やすことにほかならない。

民主党東京都知事の活躍に期待。

田舎雑感

いざ田舎に暮らさめせしやんと思いて、はや7ヶ月が過ぎた。

仮免許取得の当日、初冠雪の日に参りて、凍てつく鹿の通り道を実際滑ったりして過ごした冬をなんとかやり過ごし、遅い桜や花桃を愛でに愛でた春が懐かしい。

 

ちゅーか、驚いたんは、真夏の陽射しったい。

シンガポールより暑かとね。

あんまり暑っかーとね、思考が、まとまるもんもまとまらんたい。

 

なによりも驚いたのは、私の【夏の記憶】というべきものが、上記の如く【九州】だということである。

夏の記憶とはつまり、殺した小鯵に美味しい小鯵のその眼。沸いてくる見知らぬ親戚の無礼講。磯の匂いとボッとントイレのこの臭い。寝台特急桜号で迎える下関の朝に迎える仏頂面の父と笑顔の母が懐かしい。当時から私は寝ぼすけであったのだ。

 

私の父は長崎の五島列島みたいなとこ出身で、母は宮崎県西都原古墳群は河童沼の畔の生れである。宮崎の祖父はしきりに河童沼の恐怖を私に聞かせ、ピザポテトを片手に戦慄する都会の童を見て嗤い、18年前に歌集を遺して逝ってしまった。

 

そういうわけで田舎が好きな私は田舎に来てみたわけだけれども、やっぱりここは田舎じゃない。

 

まず、夏空が汚い。中京工業地帯が原因かも知らん。

小学生で習うことなので今更かも知れないが一応いっておくと、夏は太平洋のが日本海より気圧が高い→からの→太平洋(愛知)から日本海に風が吹く、というだけの道理で、今日も空は切なくなるど汚い。

 

次に、昨日みたエセ田舎市制10周年記念ミュージカルがまたエセ田舎独特だった。

『精霊のふるさと』みたいなほのぼのタイトルにだまされて行ってみたら、精霊が猪の長老を仕留めたところで滔々と、

『輸送トラックは二酸化炭素を排出するからよくないからハイブリッドにすればいい!』

というようなことを喚き、揚げ句の果てには、

『私の夢は、生れの島を鉄筋コンクリートの支柱で支え、温暖化による海位上昇に備えることだ!』

というのである。

ハイブリッド輸送トラック製造工場の(二酸化炭素的)製造コストとか、あと言うまでもなく島をコンクリートでうんぬんとか……、と、脱力しそうなところで猪の長老の死骸ももそのままで、もののけ姫みたく復活することもなく、呆れ果てて眠気も醒めたところでストーリーは未回収で俺は死にたくなって……。

 

真実の田舎は、『取り返しのつかないところで気付く』か、同じような意味で『気付いた時には遅かったと気付く』ものである。

然るに、避暑地的田舎、例えば清里や軽井沢は、圧倒的田舎であるにも拘わらず田舎ではない。

 

思うに、『取り返しの付く地点を模索する』という時点でそれは悪しき田舎だ。

もうなんつーかめんどいから適当に言うけれど、

『気付いてんならちゃんとやれ。甘えるな』

 

で、うまくやってるところもいくらかある。すごいなあと感心する。

俺には無理だと、死にたくなる。

 

って思うけれど、エセ田舎こそ補助金が沢山出るんだよね。美味しいよね。

 責任感とかないのだろうか。俺には無いけれど。

汚れっちまった長良川(manap様のご指摘により、汚れちまっから汚れちまつたに修正しました。manap様、誠にありがとうございました。そして、お誕生日おめでとうございます)(mnp様のご指摘により、汚れちまつたから汚れっちまったに再度修正しました。manap様、誠にありがとうございました。そして、お誕生日おめでとうございます

評判の催しをみて文章を書いた。

評判の催しは神社で、私は無学なので参道の中央をぬしぬしと歩いて行った。ところ、拝殿の正面入口が脚立で封鎖されていた。卑賎な私は卑屈に脇からパシャパシャやった。お陰でスローシャッタのカメラを件の脚立に押さえていいなと思った。ところ、リュックのカメラ趣味ぽいおっさんがぼそっと呟いた。「あぁ、邪魔だな……」

ぶっちゃけ、恐れ、戦慄し、理解し、悟り、そしてむかついた。

カメラを構える29歳以上の男にまともな倫理を期待するのは無謀である。
連中、電車の写真を撮るためなら、私有地に不法侵入し『邪魔』な植物を無断で刈り去るを厭わぬあさましきものであるがゆえ。

いっておくが、邪魔だったのは私ではない。
私ごとき良識人がそんな凶暴なおっさんの安いレンズの焦点距離を誤解しその視界に入ることは駱駝が針の穴に入ることより難しい。


おっさんがぼそっと邪魔だと言ったのは、件の催しにおいて輪を描いて踊る、手前の方の人々だったのである。おっさんは奥の方の人々の尊顔をパシャッとして、なんたら新聞写真賞に投稿したかったのだ。きっと。そうでなければ、あんなプラスチックの三脚にレリーズを用いるといったような意味不明なことはすまい。

そんな一見謙虚で不遜な写真より、『あーごめんごめんごめんごめんごめんなさいね! ちょっと邪魔するね! 輪の中入っちゃった! 撮るね! いーね! いい笑顔だね!』とかいって撮る、まさにアラーキーみたいな人の写真の方がいい。

 

そもそも脚立なんてケチな席取りがいかにもみみっちい。『言葉で、キャラで、人間として、その場に入って行けません』と宣言しているようで、なにより、そういう事情を脚立、すなわちアルミニウムという無機物に任せて憤然としているのが何より情けない。

 

このような『クリエイタの傲慢』は至る所に垣間見得る。

 

たとえば、フリーペーパの『文字組み』などが最たるものである。

文字を組み、いかした写真を置いときゃ満足といった風情である。

 

私は反省し、今宵も行頭括弧類などを調整するものである。

しょっぱ〜ん♥

人間、とかく視覚に頼りがちである。

しかるに、多くの人は以下のように考える。

その文の下のようなことを知らずにだ。

 

『デザインって、見た目が良ければいいんでしょ。ラクショー(^o^)』

『業界規則、幾何学、色彩論。ならびに心理学、政治、文法、』

 

動物は『刺激』を『理解』する。

すなわち、interpretする。

その次の段階で、「その意義わかったから今度から私/僕(I)が下(under)から支える(stand)ね、その意義のこと!」と、「I understand!」する。

 

interpretとは、

1 〈外国語を〉通訳する(translate).
2[V名 詞as名 詞[形容詞]]…を(…の意に)解釈する
Don't interpret his silence as consent.|彼が黙っているからといって賛成と思ってはいけない.
3 …の意味を述べる, …を説明する;〈夢の〉分析をする
interpret the meaning of a passage|文章の意味を明らかにする.
4 (自己の解釈感性に基づいて)…の役を演じる, 〈音楽演劇を〉演奏[演出]する.

だ。

 

さて、『通訳』でも『解釈』でも『分析』でも『演ずる』のどれでもいいけれど、大切なのは『何のためにそうするのか』ということだ。

 

本を読む。文章をinterpretする。しゅごい。尊敬しちゃう。

でも、何のためにだろう。

 

音楽を聴く。1000年の歴史の末にバッハがようやく打ち立てた和声学に成り立つ旋律をinterpretする。しゅごい。天才か。でもいいよね。僕はショパンよりリストが好きかな。

でも、何のために?

 

運動する。肉体やボールの動きをinterpretする。しゅごい。楽しそう。したくなる。

でも、何のために?

 

映画をみる。それが虚構であるという前提を踏まえ、映像と音楽と言葉のコンビネイションをinterpretする。すげえ……。人間業かよ……。IQ160くらいあるんじゃないか?

でも、何のために?

 

このうち、デザインとかスポーツというのはその理解に伴う行為が定められていて、無責任ではいられない。それは丁度、ドライバさんが交通規則を守るようなものだ。

デザインは、常に他者を要請する。どんなに『優れた』デザイナも、一人では揺らぐ。絶対に揺らぐし甘える。『良い』デザイナは、だからそもそも一人にはならないし、忙しいからなれない。良いパサーだって、パスの出し手と彼ら仲間の優れた動きがなければ、伝家の宝刀の抜き場もない。

対向車が車線をはみ出さないと信じているからこそ、法定速度を30km/hもオーヴァできる。常に対向車がないと確約されるのであれば、私もいっぺん愛車のムーヴで140km/h爆走してみたいと思うもの。

 

さらに言えば、読書家とか音楽好きはいちいち比較対象を持ち上げて持論を展開せずにはいられない。これは、他に他人と関わる手だてがないからだ。哀しい。

例えば、「この芥川賞作家の作品は結局、トルストイの焼き増しでしかないよね。『今昔物語集』も読んだことないゆとりに違いないよ」「僕はリストよりショパンが好きかな〜」いうような因果な連中だ。彼らがそんなに痛々しいのは、彼らがいつも一人だからだ。

よく、ふざけてんのかお前って男が、かわいい女の子や情けない男に絡む。という話を聞くけれど、それは彼らが、他に、通一般的にナイスと思われる手だてを持たないからだ。学歴とか顔とか気立ての良さとかあるいは自信がないからか。

 

あきた。

 

もてもてブラジルワールドカップ日本代表

日本とコロンビアの力関係というものはイマイチ判然としないので、最近のサッカーのことはまったくわからない私がわかりやす〜く説明しましょう。

そうですね。今日、セカンドステージを目標に勝つのは、FC岐阜鹿島アントラーズに2−0で勝つくらいの難しさでしょうか。ランキング的に。あとメンバーの一流具合的に。
なんだか、「そんなこともたまにはありそう。まあないけど」って感じでいいですね。
他には、2006年くらいの基準で、『ナポリミランに3−1』『エスパニョールがラコルニャに2−0』『フラムがリヴァプールに4−2』という、よくある「やったあ!」「ひゃっほい!」な番狂わせくらいの可能性があります。
サッカーファンは阿呆なので、そういう番狂わせのエクシタシィをいつも期待する生き物なのですから、これはもう期待大です。負けて官軍、勝ってハイパー官軍です。

どうですか。とってもわかりやすいですね。


ここでやさぐれて、「システム的に勝つ訳ないじゃんw 本田w あいつが何してくれるのw 費用対効果がペイアウトじゃんw」などと訳の分からないことをのたまって、『マジョリティの意見に流されない世界に1人だけの知的かつ論理的な俺/私』を標榜する人はいかにもモテなさそうですね。そのモテなさそさも、そうやってサッカー日本代表の勝利の可能性を否定することにとって間接的に自らの名誉を高めようとする卑賎な思惑に成り立つものです。そもそもサッカーファンの多くは低所得者層、低学歴層ですから、そうやって統計や論理を重んじるインテリ上流階級は競馬と葉巻とスコッチウイスキィを愛していればいいのです。サッカーファンがモテモテなので嫉妬しているのです。

 

さあ、モテるために日本を応援しようじゃありませんか。モテない私はそこまで熱心になれないので、きっと寝ていますが。