李斎庵

どういう訳か田舎暮らしをすることになってしまった

新世界より

 みなさんは、ドヴォルザークの「新世界より」をご存知だろうか。

 

 一般的に、新世界アメリカにおいて故居ボヘミアを懐かしんで描いたものといわれている、交響楽の珠玉の一つ。その旋律を記憶していない先進国民は、ひとりもいない。

 

 私はそうはおもわないし、管弦楽でもなんでも芸術をかじったひとならすぐさまわかることだと思うのだけれど

 

 このドヴォルザークは、何一つとして懐かしんでいない。

 

 というのはいくらなんでもらんぼうな推測だけれども、

 

 ドヴォルザークくは明確なヴィジョン(旋律)があり、自分のヴィジョンとアメリカの未来を重ねていた。不安もかなりあったろうなあ。

 

ごーるでんうぃんぐ

今日は、はじめて本格的に『ブレーキ踏んでしばらくたってようよう曲がるときにやっとウィンカ出す』車の後続というひどいめにあったのだけれども、あれって、存外こわい。
 
私は、
「あー猿の死体でも避けるためにスピード落としてるのかな? 栗の美味しい季節だものなああるある(^~^)」
と思ってエンジンブレーキに切り替える。
 
するとどうです。やっこさん、『警戒のブレーキ』ではなくして、『曲がるための』本格的なブレーキきかせはじめて、こっちもちょっとあわててフットブレーキっちゅーの? で、ようよう、ウィンカが見える…。
 
100m空けてこのありさまなのだから、やっぱ車間距離は150m空けとかないとだめだなって思った。
150空けると、横から軽トラが入ってくるけど、余裕で対応できるもん。
 
ていうか、密度の低い田舎であえて車間距離ぎゅんぎゅんにする人って、どがん人かとおいはおもっちゃがね。(てきとう九州語)
 
なんかそういう、満員電車を楽しむみたいなメンタリティー、やばない?って思う。
 
それって、満員電車の隣に可愛い女子高生がいて興奮するとか、気持ちの悪いおじさんがいてムカムカするか、テスト勉強してる小中学生がいてほんわかするとか、なんか、常に自分のあり方を他人によって決めているみたいな、そんなんと変わらんと思う。
 
でも、そんなおっさんだって、自分のはげ頭を直視できるような背の高い男が隣に四〇分とかイヤだろう。
 
そいやあどっかで聞いた。
「遅い車がいたら? 煽るわんなもんw」だって。
 
『痴漢』だわ。って思った。

正味私はつねにむかついている旨

ぼくのともだちは、いつもごかいされています。

ぼくのともだちは、いつも正直です。

いつもまじめです。

それに、ぜったいうそをつきません。

 

ぼくは、そんなぼくのともだちが、なんだか、よくわからないけれど、

ちゃんと、みんなと、しっかりともだちになれているのか、

心配です。

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左利きのキープレフタが右翼について書いてみる。

 婚約者が「李斎庵さんブログ書かないのん?」と切なげ言ったので、私こと希代のキープレフティング優良ドライバがなにやら書くことにした。

 

 昨今私が気にするのは、なんだかんだ強い女子サッカー日本代表のW杯、毎夏盛り上がる沖縄近辺とそれに呼応するように足下救われる自民党ウィンブルドンを棄権した錦織選手、『響け!ユーフォニアム』というアニメ、そしてなによりイチロー選手の飽くなき冒険と活躍である。

 

 このなかで最も題材として利便性に優れる、政治のはなしだけれども、正直、私は政治の政の字も毛筆で上手く書けない割にあーだこーだ思っていて、まあはっきり言ってネトウヨなんだけれども、ネトウヨとはすなわち、新聞も読めない、本屋の新潮コーナーで中島敦の立ち読みもしたことすらない、村上春樹の一つも読んだことのない愚蒙の輩の総称である。

 

 もっとも、諸君は年代によって、「俺はねじまき鳥は読んだ!」と憤るだろう、ちなみに「羊」は私には分からない、まさに先史のことである。

 ここまでいうと私が村上春樹だいきらいひねくれとかおもっちゃうかもだけど、はっきりいって、私の青春は村上春樹と共にあった。ほんとうに、なんともいえないよね。ぱーって感じ。村上春樹を読むと、みんなあほになっちゃんだー(^^)

 

 まじきもい、もっとふつうに部活に熱中したかったなー(^^)(^^)(^^)

 

 まあまあそこでまず思うのは、まず私は、新聞はとてもつまらないと思う。

 

 いつもいつも事実の羅列ばかりで、頑張る青少年を、なにせ公共性の高いメディアだからおいそれと褒め称えるでもないとばかりにちょろっと紹介し、公共的に人気の高い残虐事件・大災害は超クローズアップ。社是に適わない現象はこれとばかりに『社説』をクローズアップし、炎上マーケティングを虎視眈々と狙っている。。

 

 正味、特に地方の新聞は情けない、何かを言っているようで、まったくなにをも語っていない。

 

 こんなくそくだらない駄文を垂れ流すくらいなら、毎日二つ、合計一六〇〇gのカメラ&レンズに加え、10kgは下らない三脚や脚立を抱え現場を駆けずり回っていたほうが、よっぽど『真実』に近づけるというものではないのだろうか。もっとも、地方紙では記者とカメラマンは同一なのだが。

 

 ていうか、ちょいまてや。おまん、なんなん? 阿呆か馬鹿か、それともあれですか、都会的オシャレインリゲンツァめざしたけど諦めて、田舎でインリゲンツァするそんなクチですか。アホ言うなし。お前の孤独埋めるためにひとは田舎で営んでるちゃうんねんで。とも思う。

 

 はっきりいって、もうちょっと、具体的には朝日新聞か沖縄タイムズくらいエッヂィにいってくれないと、事実か捏造か、あるいは何らかの策略かとも判断がつかないので困る。それ未満の五流ノンフィクションで世間を知り、理知的に判断できていると思っているような風になっている人は、とりあえず村上春樹か、あるいは最近流行りらしいフランク・ゼッカでも聴いていればいい。それで自足してくれるようなひとならば、はきりいって、どうにでもなる。

 

 「自分が何を言っているかわかっていないということをわかっていないということは悲しむべきことである」

 というのは、仏蘭西共和国国葬第一号の詩人であり思想家、ジッドのマブダチ、ポールアンブロワーズヴァレリーが自著において描いた思想だが、まあ私は、そこまでは思わないし、思えもしない。そもそも、私は、何かしらを期待するように教育されていない。もっといえば、希望というものは、いったい、どういったものなのかもよくわからない。先達がここまでに示したものは、野党が与党に浴びせる詭弁か、あるいは政治的暴力かの二択である。

 

 関係ないが、最近一番胸くそ悪かったのが、芸大卒だかなんだか、いかに個性的なんだかしらんが、私のような優良ドライバをもって、はりきって「っはっはーん、そう。それで? まじうけるわー」とかいったわけわからん浅黒の土人である。

 

 こいつにこいつ固有の名誉ってなんかあんのかなって思った けど、まあ、どうでもいいので黙っておいた。むかついたけど。馬鹿にするタネを炯々と探す眼には辟易としたけれど。まあそれはわかるからどうでもないけど。

 

 私が宣言したいのは、ただ一点。

「自分が何言っているのかわかってるかわかってから何か言え」

 ということ。

 

 この文章は9時間後に筆者の記憶から抹消されます。ありがちおごじあました。

雪やばい

『自然』という『語』をもって『何』を思い浮かべるか。

 いうまでもなく、そういわれて思い浮かべるものは『自然』である。それは『自然』であって、他のなにものでもない。

 

 というのも、そうして(『自然という語から』)われわれが『目に浮かべるもの(ようやく想像するもの)』は、『鹿児島県熊毛郡にある屋久島町の原生林』であり、『近所の林道沿いに眺める森林』であり、あるいは『肉食獣が草食獣を狩る姿』等にほかならない。

 

『自然』は多くの場合、『人工』の対称として捉えられていて、ありふれてひどい場合には、『人工』を『都会』と考えるひとびとが、『自然』を『田舎』と同じものだと考え化学肥料の存在に驚いたりする。

 

 ろころで私も驚いたのだが、『自然』を英訳すると『Let it go』となる。

 重ねて言うが、『レリゴー』となる。

『BEじゃん?』という人は、気持ちはわかるが、もうちょっと勉強しよう。

 

 閑話休題

 

 田舎にとっての獣害とか雪とかいうものは、都会にとっての遅延とか雪というものとなんらかわりのない『自然なもの』だと思う。

 猪肉食うのも自然。5分歩けばコンビニあるのも自然。都会人が雪道運転へたで25km/hで走るのも自然なら、田舎人が中野の5叉路で戸惑うのも自然。

 

 なにもどうせかわりないのに、どうして俺は生きているんだろうと思うのか仕方がないことも、自然という他ないなあ。

 

安いプライドを取り戻すべくカメラを買ったら

あっさりと自信というべきものが取り戻せた。それはむしろ、自負とでもいうべきものだった。

 

カメラはレンズはと、限りしかないような資産との兼ね合い上、ただでさえ変態なのに変態的リサーチを重ねる者がまず辿り着くところがある。

 

賢明な紳士淑女には言うまでもない。

 

それは『価格.com』のレビューページである。

 

そこにはカメラの精霊たちの言霊が、文系的に言って混沌としていて、理系的に言ってトーラス状になっていて、政治哲学(マイケル・サンデル)的に言って「正義とは何か?」といったものが実存する、知ろうとすればするほど深みに嵌る、まさにこの世の地獄であった。

 

しかし私は、驚くべきことに、この地獄沼にほとんど足を取られずに飄々と生還したのである。

車でお邪魔した自宅から30km離れたところで「呑め!」といわれて、「え。でも今日車なんでs」「なにおー! 呑め! 呑もう! 泊まってけ!」「う〜ん、(困ったなあ)はい!」というくらいに意志薄弱なこの私が、である。

 

有り体に言って、そこにはこんなことが書かれている、ということを一括弧にまとめると、『僕はプロじゃないので分かりませんが、この機材のスペックはプロ使用に十分耐えられます。もちろん、プロがその絶対的かつ繊細な手腕で使いこなしてこその話ですが。まあ資金があるなら買うべきでしょう。僕はプロよりいいレンズもってます』というようなことである。くそうらやましい。

 

2時間の特訓後にブライダルや映画のスチルに放り出されたり、○○堂の広告撮影の際にレンズフィルタをティッシュで拭きながらのプロとしての仕事を一応経験した身からすると、プロが持つものは、なによりもまず、写され現れ見られる真という意味での写真への誠実さであって『あの一瞬を収めること』とか『繊細な表現をすること』とかいうものはその下に勝手に属するものだということ。

 

さっき10年以上前の写真を見ていたのだけれども、今持っている技術がそこにあっても再現できない写真で、というかむしろぶつぶつした写真だからよくて、あきた

 

fghjky

いっちょ自前のプライド取り戻そっ♬

 

という軽いテンションで、納得できる撮影機材を揃えなければと思いたった。

 

フルサイズで、Nikonと迷ったが、結局、機体はEOS5Dとした。

 

Nikonはシャープで色も新鮮だけれども、その『色』というものが、要はあんまり現実的でシュールでシューレアリスティックだから新鮮なのであって、私のようなロマンチストさんとしての特性からいってそういうのは「観るのは好き。でも描けない。描くべきではない」と思われるのだ。Canonはやりすぎだと思う。

つまりどっちでもいいので慣れたほう・安いほうを選んだのである。お金はないのである。ホントはマミヤにデジタルバックがいい。

 

スナップなどに最適な常用ズームレンズに関しては変態的リサーチを重ねた。

もちろん昔親しみ大変に勉強をしたEF 24-70/2.8Lが頭に浮かんだが、まずそんなお金はない(事実)し、あのレンズは飽きた(負け惜しみ)し、なんだか「美術・体育系を除いてオール5。ちなみに家庭科も5」みたいな感じでつまらない(実際は耐久性抜群だが)。

変態的に変態のSIGMAが良かったが、結局、焦点距離と明るさから

Tamron A09

というところが確定した。

スナップレベルだと、100%の自己満足よりも、87%以上の見るほうの納得だと思う。

 

ポートレイト、お散歩、物撮り用の単焦点レンズ関してはもっと変態リサーチをした。

こだわるほど、自分で納得できないものは気持ちよく渡せないからである。安易に値下げに応じるような腑抜けになるからである。

 

私は、APS-C上のPlanar 50/1.4には、その狭さにたいへん歯がゆい思いをしてきた。昔使っていたフイルムのなんちゃらかんちゃらSMC35にもその広さに大変歯がゆい思いをしたので、

Canon FL 50/1.8

・Biogon 58/2

といった、60年代以前のいわゆる『オールドレンズ』に魅かれた。

こいつらは、美術や家庭科の成績はよいけれど、一般教科はまったく勉強しない、割に、英語と社会はすごくいい、学校をてきとうにサボりはするが学生運動に勤しむ未来の○○党支持者層といったIQの残念な連中を見下すといったような風情のレンズで、まるで私である。

しかし、マウントアダプタを使っても5Dのミラーと干渉するようなのであっさりと諦め、こつこつと「完璧超人、ただし浮気性」みたいなツァイスを収集するしかなくなった。ツァイスは、私のように不真面目ようにみえて実は真面目な人間にとっての理想であり軽蔑の対象なのである。

 

ちなみに今でこそこのFL50は1,000円とかで手に入るが、発売当時は初任給の2/3であった。

30年後には70−200/1.4とかがあるのかもというようなことはカメラ光学的にあり得ないので期待してはいけないけれど、今18万のレンズが将来1,000円で買えるのかも知れない。

 

昔も今もカメラマンがいるのは、結局写真はライティングだと、そう思う。

 

 

このたび変態リサーチを重ねわかったのは、知ってたけど世のカメラ爺はものほんの変態だということである。知ってたけど。

100,000を超える新商品に対し

「カミソリのようにシャープ。だのにえもいわれぬボケ。SIGMA50/1.4、たまらない。」

とか、「それはお前の奥さんのことやで!! この金にものいわす浮気性のヘンタイロリコン!」と思う。